家庭教会と氏族的メシヤ より:伝道に関して

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 家庭教会と氏族的メシヤ より

~~伝道に関してのみ言 抜粋~~

教会が発展できない原因は、どこにあるのでしょうか。それは、伝道した人に、最後まで関心をもってあげられないからです。伝道した人に対して、時がたつにつれてだんだんと、さらに関心をもたなければならないにもかかわらず、伝道するときは関心をもっても、伝道をしてからは無関心になるというのです。少なくとも三年までは、どのようなときでも関心をもってあげなければなりません。

なぜでしょうか。人の心霊の程度は徐々に発展します。初めて原理を聞いたときと、一年後の立場は違うというのです。一年が過ぎれば、原理の内外に対する立体的な内容を理解するようになります。それを理解すれば理解するほど、原理について知りたい気持ちがより強くなるのです。それで、自分を指導できる人と接近したいと思うようになるのです。このような人に時間をもっと投入し、細かい計画を立て、内面的に渇望するその心を解決してあげなければなりません。
B9-3-5-6

伝道とは、サタン世界を捨てて、喜びながら天の道に従ってくるようにすることです。天の国に導くのです。皆さんを見れば、伝道すると言って、その人が喜ぼうが喜ぶまいが、ただ無理やり「来なさい、来なさい」と言っていますが、それではいけません。人は霊的存在です。

皆さんは、ある一人の人に対して祈り、一度実験してみなさいというのです。ある一人の人をこの上なく愛し、その人をみ旨の前に立たせるために、苦しい心情をもって涙を流してみなさいというのです。そして、研究してみなければなりません。本当にその人の父母が愛する立場以上の場に、「私」がどのようにして行くのかということが問題です。これが闘いです。その人の父母以上の心をもち、私がどのようにしてその人を占領していくのか、これが問題です。
(B9-3-5-8)

今まで宗教は、自分の救いという問題を中心にしてきました。そのような宗教は必ず滅亡します。終わりが来ます。今は、いくら世界的になっているとしても、それは必ずもう一度復活しなければなりません。自分一人の生命を救うための宗教と、キリスト教を信じる信徒の目的はどこにありますか。自分が救いを受けて、天国に行こうと言いますが、それではいけません。天国に行くのですが、一人で行って何をしますか。万民を連れていくために、信仰しなければなりません。ですから、「伝道してはいけない」と言っても、伝道せざるを得ないのです。「善を行ってはいけない」と言っても、行わざるを得ないのです。
(B9-3-5-12)

伝道に出るのは、「私」も生き、カインも生かすためです。言い換えれば、伝道は、神様とサタンに認証書をもらって、実践するために歩む道です。私が闘うのは、認証書をもらうために立てておいた条件のとおりに実践するためです。皆さんはそれを知って道を歩まなければなりませんが、今までそのように歩んだ人がいますか。何も知らずに行ったり来たりしたというのです。

ですから、一番の怨讐はサタンではありません。自分が一番の怨讐です。自分が怨讐の立場に立っているので、怨讐のサタンが飛びついてくるのです。したがって、皆さんは、いつも自分が怨讐だと考えなさいというのです。怨讐は、私たちの体を通して現れるからです。すなわち、血統を通してサタンと連結されているので、自分の体が怨讐の立場にいるのです。
(B9-3-5-13)

伝道は、無限に与えながらするようになっています。もし、皆さんがそのようにしたにもかかわらず、彼らが応じなければ、天の呼び出し命令が下されるのです。許されません。善は、蒔いて収めることができないということがあってはならないので、善の人が呼ぶとき、そこに応えることができなければ罰を受けるのです。善が手を広げたのにもかかわらず、その結果が出てこなければ、その村と隣の村まで、サタンの手に巻き込まれていくので、善の縁をもった先祖たちはそのような所へ行き、伝道しようとする人が要求する基準にふさわしい対象者を、自分の子孫の中からかき集めてでも立てようとするのです。これが原則なので、夢の中ででも子孫に教えてあげるのです。
(B9-3-5-16)

皆さんは、伝道対象者のために、夜を徹して痛哭し、祈ってみましたか。自分の父母が死んだとき以上に悲しみながら、あるいは愛する恋人が死んだとき以上に悲しみながら、痛哭してみたのかというのです。そのようにしたことがなければ、してみなければなりません。夜を徹しながら、痛哭しなければなりません。一つの命を生かすことさえできれば、何も惜しいものがないというのです。お金や服、家が問題ではありません。人を愛することに夢中にならなければなりません。
(B9-3-5-17)

私たちが伝道するときも、きのう伝道するときの心と、きょう伝道するときの心が、出発するときから違わなげればなりません。言い換えれば、「過去にはこれこれこのような心で出発したが、きょうは新たな心をもってやらなければ」という覚悟で、出発の動機からそのように異なる覚悟で出ていけば、間違いなく良い結果をもたらすというのです。

しかし、そのようにできず、昔よりもっと低い立場で、きのうよりも良くない心で出発すれば、必ず後退の一路を歩むようになるのです。そのような環境の中で続けて歩めば歩むほど、破局を自ら招くことになります。また、それが一方的ではなく、四方にそのような後退の感情を起こしていけば、いくら目的が大きく、いくら自ら固く決意するとしても、それは停止状態として、動こうにも動けない、完全に固着した立場を体験するようになるのです。
(B9-3-5-19)

以上、メンバーページ 「教会長と伝道」より